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「普通〇〇」

「普通、〇〇だよね」
このようなフレーズで他者に同意を求めたこと、 あるいは同意を求められたことはないでしょうか。
あらためてこの視点を持って自分自身を観察してみると、日常のあらゆる場面で「普通〇〇」というフレーズが脳内で頻繁に再生されていることに気がつきます。類似表現も含めれば以下のようなつぶやきです。
「"普通"これぐらいできるはず」
「"みんな"もっと事前準備をしてくるよ」
「"常識的には"遅れるときは事前に連絡を入れるもんだよね」
私たちがあまりに無意識のうちに活用している「普通〇〇」の意味することは何でしょうか。それはきっと、
自分が相手に抱いている期待水準は決して過度なものではなく正当なものだ!
私は常識的なことを言っていて、高い確率で相手の方が非常識なのだ!
という心の叫びではないでしょうか。
とどのつまり「私は正しい、あなたは間違っている」という主張を「普通」という言葉で婉曲に表現しているに過ぎないのでしょう。こうして言語化をしてみると、1日のうちに私は何度も何度も「私は正しい、あなたは間違っている」をつぶやいていることになります。
自己正当化が激しいタイプの人とは積極的にお付き合いしたくないなぁ......と思ったら「私もか!?」と気づいて悲しくなりますが、でもこれって普通ですよね?
私は(そしてきっと私たちは)「正しい人でありたい」と思っています。一方で「普通〇〇」を握りしめて主張をしている時ほど、得てして人間関係や仕事がうまくいかなくなるということも経験的に知っています。上記のようなジレンマを抱えたときの決まり文句は「相手を受け入れよう」や「自分とは違う相手の考え方を理解しよう」だったりするのですが、その正しさは頭では理解できるものの、私の場合は心がモヤモヤしてどうもその気になれません。
異文化を研究対象とした学問 「文化人類学」の智慧
同僚に「面白いよ」と紹介されて読んだ書籍『はみだしの人類学』(文化人類学者・松村圭一郎氏の著書)(※)に「普通〇〇」に囚われつつ決まり文句にモヤモヤしてしまう私への示唆を見つけました。 文化人類学は、異なる文化を持つ人々を客観的に観察・分析し、理解しようとする学問です。
「多文化共生」や「異文化理解」という言葉が当たり前のように使われています。その時に出てくるのが「異なる文化を学ぼう」とか、「違いを受け入れる寛容さが大切だ」といった言葉です。
ところが、この一見、他者理解を目指すような態度には、実は大きな問題が潜んでいます。そこには自文化と異文化は全く異なるという揺るぎない前提が隠されている。異文化に寛容になろうと言いながら、まったく相いれない乗り越えがたい差異があることを前提にしてしまっている。それは本来あるべき姿勢とは真逆であるものなのです。
「普通〇〇」に囚われている状態に無理に折り合いを付けようと「相手を理解しよう、違いを受け入れよう」と自分に言い聞かせている奥底には「間違っている相手を理解してあげよう」という相も変らぬ上から目線が潜んでいることを指摘されたような気持になりました。
松村氏は他者理解を目指すのではない文化人類学の"あり方"を紹介しています。
文化人類学が大切な手法としている「比較」には、二つの種類があります。
ある集団と別の集団をその境界に沿って別のものとして差異を強調するような比較(日本とニューギニアはこんなに違う!近代社会と近代以前の社会には大きな溝がある!)と、その境界線の引き方や差異を疑うような比較(日本人とニューギニア人ってまったく違うと言えるのか? 近代化しても変わらない普遍性があるのではないか?)です。
(中略)
これがあたりまえだ、この考え方が正しい、といった固定的な「わたし」へのこだわりが他者との出会いによって覆される。そして、またあらたな「わたし」の輪郭を手探りで見つけ出そうともがく。その変化する景色を「おもしろい!」と好奇心にかられるまま歩んだ曲がりくねった道のりが、私にとっての文化人類学だったような気がします。
私は普通で正しい、あなたは間違っているという思考には、明らかに両者の間に違いを強調し、境界線が引かれている感覚があります。その双方の前提を覆す考え方を取り入れることはできないでしょうか。
「普通〇〇」が使えない世界
海外駐在経験者の方から聞く武勇伝の多くは「普通〇〇」が全く通用しない環境下での奮闘物語です。どんなに自分が正しいと信じている「普通〇〇」であっても「ここは日本じゃないから」で一蹴されてしまう環境は想像するにタフです。私が以前コーチングをしていた海外駐在経験者のAさんからは、約束の時間に遅刻ばかりしてくる現地ナショナルスタッフから「日本人は時間を守らない」と言われて心底驚愕したという体験談を教えてもらいました。
「いやいや、遅刻ばかりしてくるのはあなたたちでしょ?」とAさんが言うと、
「日本人は終了時刻を守らない。会議はいつも延長される」とスタッフに言われ、返す言葉がなかったそうです。
この体験談がクスっと笑えてしまうのは、 「開始時間を守ろうとする」日本人と 「終了時間を守ろうとする」ナショナルスタッフの違いによるすれ違いの中に「でも、お互いに時間は守ろうとしていた」という共通項があったからではないでしょうか。
Aさんは「普通〇〇」が通用しない出来事に遭遇すると自然に「どうしてそのように考えるのか、行動するのか私にも教えて」とナショナルスタッフに教えを乞うようになったそうです。また、相手の考えを受け入れるだけでなく、自分の考えも理解してもらったり、お互いに新しい考え方ができないかを相手と一緒に粘り強く対話するようになったそうです。そんなAさんは日本への帰任後、「こうあるべき」に縛られて窮屈だなと感じることが増えたそうです。
何が違いなのだろうか?
何が共通しているのだろうか?
自分は何を正しいと信じているのか?
その信念は何によって構築されたのか?
相手の大切にしている信念は何か?
お互いに大切にしている信念は何か?
自分と相手の間にどのような境界線を引いているのか?
自分と相手が「私たち」になるような境界線はないのか?
「普通〇〇」でスタックしてしまう自分の内側に、上から目線ではない好奇心を起動する問いを携えられたら、次こそは違った景色が見えてくる......かもしれません。
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【参考資料】
※ 松村圭一郎(著)、『はみだしの人類学: ともに生きる方法』、NHK出版、2020年
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