ハーバード大学医学大学院の外郭団体、「コーチング研究所/Institute of Coaching (IOC)」所蔵のコーチングに関する論文やリサーチ・レポート、ブログなどをご紹介します。
コーチングで最初に取り組むのは「現実的な自己」か「理想的な自己」か?
2024年05月07日
まず理想的な自己に焦点を当てることで、現実的な自己に必要な学習と変化を成し遂げるためのマインドセット、モチベーション、リソースが引き出される。
理想と現実の対立
コーチングセッション、そしてコーチングプログラム全体においても、私たちはクライアントが提示した克服すべき課題や解決すべき問題から始めることがほとんどである。最初に示される課題や問題は、職場で発生したもの、360度評価で明らかになったこと、上司やチームとの関係から生じたものなど様々だ。しかし、それはコーチングの最初のステップとして本当に一番良いのだろうか?
トニー・ジャック、アンジェラ・パサレッリ(米国コーチング研究所(IOC)リサーチディレクター)、リチャード・ボヤツィス(IOCソートリーダー)による2023年8月の論文「When fixing problems kills personal development: fMRI reveals conflict between Real and ideal Selves(問題解決が自己啓発を妨げるとき:fMRIによって明らかになった現実自己と理想自己の対立)」は、課題から始めるのが最善ではないことを論証している。その基礎となっているのは、2013年の「肯定的感情アトラクタ(positive emotional attractor、以下「PEA」)」と「否定的感情アトラクタ(negative emotional attractor、以下「NEA」)」という観点から行われた「理想自己」と「現実自己」に対するコーチングのfMRI(機能的MRI検査)研究である。
行動変容を進めるには自覚と自己認識を高める必要があることは、誰もが認めている。しかし自己は単純な一枚岩ではない。カール・ユングは自己の中にはペルソナとシャドウが存在するとし、人間性心理学を提唱するカール・ロジャーズは人間には理想自己と現実自己があり、両者の間に矛盾があると指摘している。では、コーチングの対象をどちらの「自己」にするかでどのような違いが生じるのだろうか?
意図的変化理論とは
リチャード・ボヤツィスによる意図的変化理論(Intentional Change Theory、以下「ICT」)は、理想自己と現実自己は注意を奪い合う「注意の対立」状態にあるとする。その対立ゆえに慎重に順序だてて自己を探求していくことが重要であり、最初に理想自己を扱うべきだとしている。この理論はリチャード・ボヤツィスが職場でのコーチングを目的として開発したものだが、この考え方は米国における健康とウェルビーイングのための標準的なコーチング・コンピテンシーとも一致しており、コーチングの出発点を最適なウェルビーイングに関するビジョンを描くことに置いている。
論文の著者らは、コーチングにおける最適な順序を次のように説明している。「自己の多面性は意図的変化理論(ICT、Boyatzis, 2006)の中核となっており、持続的な変化のためには望ましい「理想自己」を受け入れ、その後複雑な発見プロセスにおいて、より現状に近い「現実自己」と対比することが前提となる。」
変化を起こすために理想的なシフトとは
理想自己を思い描くことで、クライアントは自分の価値、強み、夢にアクセスし、理想の自分あるいは最高の自分を実現するための変化に力を注ぐことができるようになる。外部からの要求や期待が主な動機となる場合と異なり、なりたい自分になりたいと心から願う内発的な動機によって必要な変化を起こすのである。
理想自己の発見は肯定的感情アトラクタ(PEA)といわれる心身の状態に関連しており、それが学習と変化を促すための認知と行動を組織する。理想自己を十分に探求し、受容し、本人が肯定的感情アトラクタ(PEA)の状態になると、意図的変化(ICT)によって今度は現実自己のほうにシフトする。クライアントに現実自己の強みを認識してもらい、それを理想自己に到達するための手段として受け入れることで、2つの自己の対立をうまく解決できるようになる。
これとは対照的に現実自己から始めると、外部の期待に対する自分のいたらなさを強く意識してしまい、そのギャップに対処する必要性が強調されることになる。これにより、自分の理想に到達するためではなく、他者に満足してもらうために自分はこうでなければならないという「義務自己」が生じる。このアプローチは回避や否定のようなネガティブな反応を引き出し、変化を実現することや、ましてや変化を維持することが難しくなる。これは否定的感情アトラクタ(NEA)の状態に関連しており、思考や行動において自身の保護と安定を優先することになる。
以下の表は、ボヤツィスの以前の研究からの引用であり、理想自己を肯定的感情アトラクタ、現実自己を否定的感情アトラクタとして区別している。
二つの精神生理学的アトラクタの特徴
肯定的感情アトラクタ | 否定的感情アトラクタ | |
---|---|---|
主要な自己意識 | 理想自己、受容自己 | 現実自己、義務自己 |
自律神経系 | 副交感神経の覚醒 | 交感神経の覚醒 |
大脳皮質ネットワーク | 共感ネットワーク(デフォルトモードネットワーク) | 分析ネットワーク(タスクポジティブネットワーク) |
感情価 | ポジティブ | ネガティブ |
認知-感情状態 | 楽観的、希望 | 悲観的、不安 |
自己決定理論 | 内発的動機 | 外発的動機 |
中心となる自己統制 | 前向き:成果を得ようとする | 防御:損失を避けようとする |
方向性 | 可能性、夢 | 問題、期待 |
中心となる能力 | 強み | 弱み |
学習体験 | 自発的な実験 | 遵守行動 |
行動 | 熟達するための行動 | 安心するための行動 |
人間関係の特徴 | 共感/人を鼓舞する | 不和/人に不快感を与える |
(Jack et al., 2023)
神経生理学を用いた研究
次に著者らは、理想自己と現実自己の対立を神経生理学によって解明する作業に着手した。その際、脳の視覚処理機能に着目し、ナボン図形を用いた。これは、たとえば小さなSの文字が集まって大きなRの文字を構成するといった図形である。こうした図形には、画像の大域的な特徴(大きな画像)と局所的な特徴(それを構成する文字)の対立が内在している。その対立を解決するために脳は注意を集中させなければならない。
対立を解決するために必要な注意のため、ナボン図形は通常の知覚よりも大きな脳活動を引き起こすことが様々な神経画像研究で示されている。知覚の流れの初期の段階で対象物の感覚的な識別(文字を識別する能力)に関係する脳の領域と、視覚的想像力や注意力に関係する「高次視覚領域」の両方で活動が発生するのである。
ナボン図形による作業が重要なのは、作業自体は似ていないにもかかわらず、コーチングでも理想自己と現実自己を同時に考えるときに同じ脳領域を活性化させるからである。この脳活動から、理想自己と現実自己の間に本質的な対立があることを示す神経生理学上の証拠が得られる。
検証のため、フルタイムの大学生47人に、まず理想自己をテーマとした0~3回の対面コーチングセッションに参加してもらい、次に別のコーチと現実自己をテーマとするセッションを1回行った。最後のコーチングセッションから2週間以内に、タスクの完了が脳活動にどのような影響をもたらしたかを調べるため機能的MRI検査(fMRI)を実施した。学生たちは、最初のコーチングセッションのときのコーチから、教育に関する自分の経験や計画について予め記録した96の発言を提示された。著者らによると、「理想自己の場合は希望、思いやり、マインドフルネス、楽しむ気持ち、現実自己の場合はそれらがないということを主題にしてこれらの発言を作成した(例:理想自己「自分の将来の様々な可能性が楽しみでならない」、現実自己「自分に期待されていることを実現できるかどうか不安だ」)」という。
次に、これらの発言に対する賛否の度合いを4段階のリッカート尺度で回答してもらった。さらに10個のナボン図形を示し、それぞれ大域的画像と局所的画像を探してもらった。そのうえで、コーチングとナボン図形のタスクによって誘発された脳活動を比較した。
研究結果―理想自己と現実自己の注意の向け方
この研究の結果、理想自己と現実自己に関わるタスクとナボン図形を使用したタスクで活性化される脳領域が広く重なっていることが分かった。ナボン図形についてはすでに知られているとおり、神経画像検査から事前に記録されたコーチングメッセージに反応する脳領域が、知覚の流れの初期の段階と高次視覚領域の両方で活性化することが明らかになった。これは、現実自己と理想自己の間で注意のコンフリクトが起きていることを示す神経生理学的な証拠となった。
著者らは次のようにまとめている。「理想自己(と受容された自己)を中心とする意図的変化理論(ICT)に基づくコーチングは、注意のコンフリクトをナボン図形の大域的な特徴に向かって解決するのに関連した神経領域を活性化するのに対し、現実自己(と義務自己)を対象とするコーチングは、局所的な特徴に向かって解決する神経領域を活性化することが分かった。」
著者らはさらにこう書いている。「大域的な注意は創造的で大局的な思考を促し、新奇なデータや不確実あるいは不完全なデータを包括的な上位の知識構造へと統合する。一方、局所的な注意は、差別化、細部への意識、狭い認知カテゴリーの活性化を強めるため、重要な刺激が入ってきても見落とす可能性がある。」
これらの結果は、「意図的変化理論開発の指針とした重要な観察結果と一致する。すなわち、理想の自己を思い描くための最大の課題は、外発的な力によって私たちに押しつけられる複数の義務自己なのである」
理想自己と現実自己の間に注意の対立があることを示すこの証拠から、順序が重要であることが改めて理解できる。ある時点で一方の自己が他方の自己を抑え込んでいるため、コーチングは理想自己の探求から始めることが重要となる。その後のコーチングセッションでも理想自己は開放性と創造性を促進するものとしてたびたび登場させるべきだが、現実自己のほうは、プロセスの後半で細部への注意が必要となるときに効果的な役割を果たす。この順序を逆にすると、様々な義務自己にとらわれたまま、クライアント本人の内発的な動機や強みを活かす機会を逃してしまうかもしれない。
この結果から、弁証法的行動療法やアクセプタンス&コミットメント・セラピーの中心テーマでもある「変化のゲシュタルト・パラドックス」を理解することもできる。すなわち、行動変容は現在の自分の評価や判断によってではなく、自分を受け入れることによってのみ起こるのである。
結論は以下のとおりだ。「(中略)コーチングは肯定的な感情と否定的な感情の対立に関係しているため、現実自己ではなくまず理想自己を対象にコーチングするほうが効果的である。理想自己が活性化されると、ポジティブな思考、深い意味のあるものとのつながり、楽観的な気持ちや自己効力感が生まれ、肯定的感情が高まる。
現実自己が活性化すると、自意識の強い思考、社会的評価に対する不安が生まれ、否定的感情状態になる。人は肯定的な情報よりも否定的な情報や脅威の情報のほうに自然に意識が向くため、現実自己を探求すると理想自己についての考えが覆い隠されてしまい、コーチングを受ける人は自分の欠点や、自分の至らなさを示すストーリー、社会の期待や圧力あるいは指示に従わなければならないといった点にばかり注意が向くことになる」
コーチのための学び
- コーチングの際にクライアントが現在の問題について話し始めたら、理想の自己や最高の自分に関する望みについて問いかけ話題を変えよう。理想自己に関わる文脈を選べるように促すとよい。それは、場合に応じて狭い文脈(特定の課題という文脈での理想自己など)でもよいし、広い文脈(複数の文脈における理想自己など)でもよい。
- 最高の自分や価値を十分に思い描き、今の現実自己に対する思いやりが生じるように探求を広げ、行動変容に必要なクライアントの内的資源を引き出そう。
- クライアントが理想自己、最高の自分を説明することができたら、今度はその理想自己または最高の自分に至る道のりの出発点として、思いやりの気持ちをもって現在自己の探求を始めよう。
- コーチングの取り組みの中で、何度も理想自己に立ち返ってみよう。
Citation:
Jack AI, Passarelli AM, Boyatzis RE. When fixing problems kills personal development: fMRI reveals conflict between Real and Ideal selves. Front Hum Neurosci. 2023 Aug 3;17:1128209. doi: 10.3389/fnhum.2023.1128209. PMID: 37600554; PMCID: PMC10435861.
Other IOC resources:
- How to envision one’s ideal self
- Coaches as Intentional Change Artists
- Self-Determination Theory in Leadership Coaching
- Richard Boyatzis Resources
【筆者について】
キンバリー・マッギー(Kimberly McGhee)氏は、研究成果を幅広い読者層にわかりやすく伝えることに情熱を注ぐサイエンスライター。ニューヨーク州立大学バッファロー校で比較文学博士課程を修了、臨床医学専門誌や医療雑誌の編集長を経て、現在はサウスカロライナ医科大学でサイエンスライターとして活動するとともに、同大学院サイエンス・コミュニケーション・イニシアチブのディレクターを務める。
マーガレット・ムーア(Margaret Moore)氏は、米国、英国、カナダ、フランスにおけるバイオテクノロジー業界で17年のキャリアを持ち、2つのバイオテクノロジー企業のCEOおよびCOOを務めた。2000年からは、健康関連のコーチングに軸足を移し、ウェルコーチ・コーポレーションを設立した。ムーア氏は米国コーチング研究所(IOC:the Institute of Coaching)の共同創設者および共同責任者であり、ハーバード大学エクステンション・スクールでコーチングの科学と心理学を教えている。
【翻訳】Hello, Coaching! 編集部
【原文】Coaching the real self vs ideal self-which first?(2023年12月10日にIOC Resources(会員限定)に掲載された記事の翻訳。IOCの許可を得て翻訳・掲載しています。)
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