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「退屈」を超越する新時代のリーダー

「退屈」を超越する新時代のリーダー
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「正解のない時代」といわれるようになってしばらく経ちます。世界情勢は目まぐるしく変わり、技術革新のスピードは加速、それと同時に人々の価値観も目まぐるしく変化します。

クライアントと話していると、この状況にキリキリした思いでいる人たちもいれば、反対にイキイキしている人たちもいるように感じます。コロナ禍という歴史の新たな局面を経て、それはより顕著になっているかもしれません。

この時代にキリキリしている人と、イキイキしている人、この違いはどこから来るのでしょうか。

人はなぜエベレストに登るのか?

実話をもとに制作された『エベレスト』(2015)という映画にこんなシーンがあります。(※1)

エベレスト登頂を目指す一団に同行した記者が聞きます。

「みなさんはなぜ命がけでエベレストを目指すのですか?」

「そこに山があるから」
「挑戦があるのになぜ登らないのか」

様々な理由が語られます。しかし私は、ある一人の登山家の答えにすべての理由に共通する本質があるように思います。彼は吹雪で凍えた体を休めながら言います。

「普段、地上で生活していると、頭に霧がかかったようなぼーっとした状態になる。でも、あの山に登っているとき、その霧が晴れるんだ」

自分の命を危険に晒したとき、自分のなかの眠れる能力が目覚め、そして目的を達成するために全身全霊研ぎ澄まされた状態になる、彼が言うのは、そういうことではないでしょうか。

私たちは随分豊かになりました。自分の感覚を研ぎ澄まさなくても、十分生きていけるのが現状です。そのことは、私たちにどんな影響を与えているでしょうか。

退屈の歴史

哲学者の國分功一郎氏は『暇と退屈の倫理学』の中で、定住生活を始めた1万年前から、私たち人間には「退屈」という問題が生じたと言います。(※2)狩猟を中心とした移動生活をしていた頃、人間の五感は研ぎ澄まされていました。危険はないか、水や食べ物は確保できるか、安全に寝られる場所はどこか、近くの川をどうやって渡るのか、人間の探索能力が常に活性化されていました。

しかし、定住生活になって安定を得る裏で、かつてあった刺激も、五感を研ぎ澄ますような場面も激減しました。時間に関していえば、生死に関わらない時間をたくさん得たわけです。國分氏は、それこそが「退屈」が生まれた背景だといいます。

「退屈」は文明を生む原動力となりました。しかし、1万年以上経った今も、私たちはこの「退屈」とのつき合い方に悩んでいます。エベレストに登る登山家の言葉は、まさにそれを象徴する言葉と言えます。

都心に向かう通勤電車の中、かなり多くの人がスマホをのぞき込んでいます。私もその例外ではありません。まさに「退屈」しのぎ、そんな状況がそこにはあるようにも感じます。

豊かさの果てに現れたこの光景を、私はなんて表現してよいのかわからずに、もやっとしてしまうのです。

大衆化した人間

スペインの哲学者、オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』の中で、こんな風に指摘します。(※3)

19世紀になると、ヨーロッパでは近代化に伴い医療や衛生状態がよくなり、人口が大幅に増加します。農村や漁村から都市に人口が流れ、都市で人が溢れるようになります。都市に出てくる前、百姓の子は百姓で、漁師の子は漁師でした。自分の居場所があり、役割も明確でした。しかし、かれらは都市に出て居場所も役割も失い、代替が可能な労働力となりました。オルテガは、都市に出てきて、居場所も役割も失い根無し草となった人たちを「大衆」と呼びました。

冒頭で、激変する環境の中で頭を悩ませている人と、それを愉しんでいる人がいると書きました。

しかし、長い目で考えてみれば、私たちは1万年も前から能力を持て余してどこか「退屈」し、それに加えて役割も与えられていない根無し草なのかもしれません。

そして、その状況でどう生きていくかは、ずっと昔から私たち全員の命題と言えるのかもしれません。

我々はどう生きるべきか

私たちが「退屈」を乗り越えて、どう生きていくかについてのヒントが、冒頭のイキイキしているリーダーたちの在り方から見えてきます。

かれらと話していると、人生の本質は「退屈」であることを認識しているように感じます。

本当はとてもいそがしい人たちなのですが、何かに追われ続けていて余裕がない、そんな素振りを見せることは決してありません。自分は大事な役割を担っている、自分は大事な人間なんだ、そんなことを振りかざしたりもしません。また「あるべき姿」を語って、そうならねばならぬと、自分や人をそこに縛りつけようともしません。

なにか面白いことはないか、もっと面白いことができないか、まさに人が「退屈」な時にやるように、それをいつも探しているように感じるのです。私はこのような人たちのことを、國分功一郎氏の言う「自由を謳歌している人」だと思っています。

退屈も、役割の明確でない状況も、人によっては苦痛かもしれません。でもだからこそ、その時間をどう過ごすのか、どんな役割を担うかを、自分で決めることができるという考え方もできます。すべて自分で自由に選べるのです。

そのリーダー達は嬉しそうにこんなセリフを言います。

「誰に頼まれたわけでもないけど、勝手な使命感があってやっている」

まさに「自分で選んでやっている」。自由を謳歌しています。

「パーパス経営」が注目を浴びるようになりました。何より大切なのは、そこで語られるパーパスに、社員がどれだけ熱中できるのか、どれだけイキイキ取り組むことができるのかではないかと思います。

コロナ禍は、私たちを縛ってきた「当たり前」から私たちを解放した、とも言えます。

國分氏は、「退屈」の反対は「興奮」だといいます。私は、正論や危機感をあおるリーダーより、どこか自由を謳歌しているリーダーたちに期待してみたくなります。私たちの眠る力を呼び覚まし、「退屈」を楽しく、意味ある事象、つまり「興奮」に変えていく力さえも感じるのです。

かれらのイキイキは、周りにも伝播していくのでなないでしょうか。

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【参考資料】
※1 バルタザール・コルマウクル監督『エベレスト3D』ユニバーサル・ピクチャーズ、2015年
※2 國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』新潮文庫、2021年(初出:朝日出版 2011年)
※3 オルテガ・イ・ガセット著『大衆の反逆』岩波文庫、2020年
中島岳志著 『100分de名著:オルテガ 大衆の反逆 真のリベラルを取り戻せ』NHK出版、2022年

※営利、非営利、イントラネットを問わず、本記事を許可なく複製、転用、販売など二次利用することを禁じます。転載、その他の利用のご希望がある場合は、編集部までお問い合わせください。

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