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「生きて」いる人と出会うには
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ウェルビーイング(well-being)の研究者である石川善樹氏は、企業における「人」について、「ヒューマン・リソース=人的資源」や「ヒューマン・キャピタル=人的資本」である前に、「ヒューマン・ビーイング=人」であるという観点が重要ではないかと説いています。(※)
石川氏によれば、どんな会社も、創業時は社員数も少ないため、お互いが「人」であると認識し、お互いに「どう生きるのか」ということについても考えているといいます。しかし、規模が大きくなってくると、会社にとって従業員は、リソース(資源)になり、ある種、部品のような扱いになります。最近は「ヒューマン・キャピタル=人的資本」という言葉に象徴されるように、企業にとって従業員は「投資対象」となったと述べています。
そのような流れの中で、多くの会社組織の中では、一人ひとりが「生きて」いる人として、お互いに興味をもち、お互いを尊重するような「つながり」が脆弱になってきました。従業員が孤独を感じたり、メンタルな病に追い込まれたりといったことは、その結果として起こっていることといえます。そこまではいかないにせよ、日常的に感じるようなモチベーションの低下や創造性の低下も、一人ひとりが「生きて」いる人であることを忘れられている結果なのかもしれません。
「人」を「モノ」と考えることで得られるもの
たしかに、私たちが日々向き合っている「人」は、「人的資源」や「人的資本」の前に「人」です。
人、つまり「ヒューマン・ビーイング」の「being」という単語は、「living thing」(生きているもの)を意味します。
一方で、「人的資源」の「資源」という言葉には、「既に持っているもので、消費されていくもの」という意味が含まれます。また「人的資本」の「資本」には「価値を生み出すもの」という意味が含まれています。
つまり「人的資源」「人的資本」という言葉のもつ響きは、ともすると「人」からその個別性や独自性を奪い、その匿名化、記号化されたイメージによって、私たちは知らないうちに「人」を「モノ」として扱ってしまうのかもしれません。
「生きて」いるということは、多様な感情を有し、多様な考えをもっている、ということです。つまり、「生きて」いるということは、一人ひとりが「違う」ということを意味するのです。
しかし、現代の会社組織においては、経営の「成果」を重んじるあまりに、効果・効率優先型の思考に囚われがちになります。そんな環境下で「違い」を前提にするのは、負荷が高いのでしょう。「人」を記号化し「モノ」として一律に扱うほうが、ずっとスピードがはやいし、楽なのです。
私たちは、自分の都合で相手を「モノ」扱いするときがある
「人」を「モノ」として扱ってしまう背景には、組織の問題だけでなく、個人の問題が関係していることもあります。
現代のような、答えのない複雑な世界では、私たち自身、いとも簡単に不確かで余裕のない状態に陥りがちです。そして、自分という存在が不確かになると、人は、相手を「モノ」として扱ってしまうことがあります。
たとえば、自分に自信がないときに、妙に他の人に対して尊大になり、相手をコントロールしようとする人がいます。彼らはそうすることで「自分はできる人だ」と自分に言い聞かせているのです。つまり、相手に対して尊大になることで、仮の自信を担保しようとしているわけです。
これは、相手を「生きて」いる「人」として向きあう行為ではありません。自分の存在を証明するために、結果的に相手を「モノ」として扱っている行為だということができます。
しかし、冒頭に述べたように、人を「モノ」扱いすることが増えれば増えるほど、それはモチベーションや創造性の低下につながっていく可能性があります。
では、「生きて」いる「人」として相手と関わっていくために、私たちは日常的に、何を大切にしていけばいいのでしょうか?
「生きて」いる人と出会う
私は、そのための一つの方法として、「対話」という関わりに注目したいと思っています。
「対話」は、向き合う「人」同士の「主観」を前提とした関わりです。主観は、過去の経験や、その経験によって学んだ考え方によって構築されていきます。
主観とは、その人固有の世界の見方、捉え方です。世界についての見方が違えば、当然その結果として、世界とのつきあい方も違ってきます。たとえ同じ組織にいて、同じ仕事をしていても、世界とのつき合い方によって、体験することは人それぞれです。つまり、人それぞれ、「生きて」いる体験は違っています。そう考えると、「主観=その人自身」と言っても過言ではありません。
主観を大事にするとは、お互いの「違い」に関心を持ち、お互いの「生きて」いる体験の「違い」にリスペクトを感じる姿勢です。そして、その「違い」から新しい視点や価値を生み出すコミュニケーションが生まれます。すなわち、「対話」です。
「対話」という行為は、「人」を「資源」や「モノ」とみるのでなく、「人」を「主観を持つ生きる存在」として大切にしていく「関わり」といえます。
なおかつ、「対話」には自己認識を高める力があります。他の人と「違い」を共有し、それをお互いに尊重することは、自分の視点を知り、その価値を尊重することでもあるからです。そして、自分のことをより深く知ることは、自分に対する不確かさを解消し、「人」を「モノ」扱いしなくてもいられる状態を整えていきます。
不確かで正解のない現代だからこそ、「人」を「人的資本」「人的資源」から解放し、一人の「生きて」いる人として向き合うことが必要なのかもしれません。
「対話」することを通して、私たちは、向き合う「人」に興味を持ち続け、尊敬の念を感じていくのだと思います。
「対話」という関わりの中で、「人」は「生きて」いる「人」と出会っていくのだと思います。
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【参考資料】
石川善樹氏・藤原大介氏対談『予防医学者と語る、幸福をサイエンスする「ウェルビーイング」という考え方』KIRINto
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