Hello, Coaching! 編集部がピックアップした本の概要を、連載形式でご紹介します。
ノーム・チョムスキー
第2回 (原理2)若者を教化・洗脳する
2018年03月15日
※本稿は、ノーム・チョムスキー著『アメリカンドリームの終わり あるいは、富と権力を集中させる10の原理』の第1章から第5章までを抜粋編集したものです。
ノーム・チョムスキーの最新刊、「アメリカン・ドリームの終わり」の内容をダイジェストでご紹介する連載の第二回。第一回では「民主主義を進める一般民衆」と「それを阻止せんとする資本家階級」の歴史を見て来ました。今回は「資本家階級」が実際にどのように「一般民衆」と相対するのかを見ていきます。そこに、政治的な思想の違いをも超えた、共通の意識が見えてくるはずです。
原理1 | 民主主義を減らす |
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原理2 | 若者を教化・洗脳する |
原理3 | 経済の仕組みをつくり変える |
原理4 | 負担は民衆に負わせる |
原理5 | 連帯と団結への攻撃 |
行き過ぎた民主主義への反発
1970年代、平等を求める一般民衆に対して、企業による巨大で集中的な攻撃が始まり、ニクソン政権の時代(1969〜1974年)に、一貫して続きました。そういった攻撃の右派側からの典型例が、有名な『パウエル覚書』でした。のちに最高裁判事になったルイス・パウエルから、アメリカ最大の経営者団体の一つ、全米商工会議所あてに送られたもので、商工会議所に次のように警告しています。「事態がこのまま進行すると、財界は社会に対する『支配力』を失う。だから、新興勢力に『対抗する』ために何か手を打つ必要がある」というのがその内容でした。
この『パウエル覚書』は次のようにも言っています。「いまアメリカ合衆国でもっとも迫害されているのは、資本家階級である。社会の所有者であるべき有産者階級が、今や完全に迫害されている。多くの活動家や、大手メディア、大学によって、全てが奪われてしまっている。だが、われわれには金がある。だから反撃できる。われわれがしなければならないことは、この経済力を使って、『自由』すなわち、われわれの権力を救うことである。」
かれは「外部の力に抗して、自分たちを守るために」、このように書いていたわけですが、ご覧のとおり、それは経済界に対する呼びかけでした。自分たちがもっている資力・財力の全てを使って大攻撃を遂行し、盛り上がろうとしている民主化の大波を打破・反撃しようと呼びかけるものでした。
他方、いわゆる左派・リベラルで国際主義の陣営からも、これとかなり似た反応がありました。たとえば「三極委員会」の最初の大きな報告書『民主主義の危機』も、この民主化の動きに対して、大きな憂慮を寄せていました。三極委員会は、欧州・日本・北米といった、3つの主要な資本主義工業国・地域から集められた、自称リベラルでインターナショナルな人たちから成るもので、委員会の考え方は、当時の民主党カーター政権がほとんどこの三極委員会のメンバーで占められていたことからもわかります。すなわち、右派とは対極に立つはずの人たちでした。
ところが、彼らもまた1960年代の民主化の流れに肝を潰したのです。そして「これに対処するために、なんとかしなくては」と考えました。「民主主義の行き過ぎ」がますます広まりつつあることに、大きな危機感を抱いたのです。彼らの目には、以前には受動的で従順な人たち、たとえば女性、若者、老人、労働者が、徒党を組んで政治の世界に参画しようとしているように映ったわけです。
面白いことに、彼らはこれらの人びとのことを「特殊権益の保持者」と呼んでいました。民衆一般の利益を代表するものとは見なさなかったわけです。この「特殊権益」をもつ人々が、アメリカの政治に過剰な圧力をかけている、というのが彼らの考え方でした。現在の体制はこのような圧力に対処できない。だから、そのような圧力をかける人たちを元の受動的な人間に引き戻して、政治の場から追放しなければならない、というわけです。
三極委員会は特に若者たちに起きている変化に反応しました。彼らはあまりにも自由で、あまりにも独立しすぎている、と三極委員会は表現しています。これには学校や大学や教会の側に何か失敗があったからだ、と。そのような機関が「若者の教科・洗脳に責任がある」と。だから我々は、「民主主義における節度、穏健な民主主義」をもっと呼びかけねばならない、というのが彼らの主張でした。
教育と教化・洗脳
教育における直接的な因果関係を証明することは難しいのですが、一般的な傾向を知るだけなら、それほど難しいことではありません。たとえば、若者の教化・洗脳について考えてみましょう。1970年代の初めから、大学生を統制しようとする、さまざまな方策が進行中であったことに気づきます。
大学生の統制、デモの抑制のために取られた方策のひとつが、大学のキャンパス空間や構造を変化させることでした。その頃から、新しい大学の構造は、学生が集会を開くことができないように設計されました。全米学生運動の発端となったカリフォルニア州立大学バークレー校のスプロール・ホールのような広場は、もう二度とつくらせない、ということです。
もうひとつの方策は、授業料の値上げです。1970年以来、大学の授業料は上がる一方です。若者の多くは、大学に行くという選択肢を奪われました。なんとか大学に進学できた若者たちでさえ、大半は大きな借金を背負って卒業することになります。自己破産もできず、返済できなければ社会保障や生活保護さえ差し押さえられるその借金によって、若者たちは永遠に権力に服従するように強いられるのです。
同じようなことは公教育でも起きています。「テストのための教育」を通して、教育を技術訓練化しているのです。子どもたちは、創造性や、独立心を奪われていき、その影響は教師にまでもみられるようになりました。具体例をあげればブッシュ大統領の「落ちこぼれゼロ法案」、オバマ大統領の「トップを目指して競争せよ法案」です。もちろんこれ以外にも同じことを狙った政策はいくつかありますが、単純なやり方としては無償教育の数や種類を減らしたり、無償教育そのものを廃止したりすることです。
国益とは何か
「われわれには金がある、われわれは国民から全てを委託された人間だ、だからわれわれは国民に規律を科す」これが、右派の立場のパウエル判事らのやり方でした。他方、左派リベラルの人たちは、表向きはもっと穏やかな手段を模索したのですが、やろうとしたことは結局のところ同じでした。実際に彼らが主張したことは、「メディアは規制が利かなくなっている。もし彼らがそのような無責任な態度を続けるならば、政府による統制が必要になるだろう。さもないと、彼らは列を乱すことになるからだ」
もうひとつ面白いことは、三極委員会では民間企業について表立った言及がないことです。彼らの定義に従えば、民間企業の「利益」は「国益」なのです。だから民間企業はロビイストという議会工作員を雇ったり、選挙を金で買ったり、自分たち企業の幹部を政府の役人として押し込んだりして、自分たちに都合のよい政策を決めたりすることが許されているのです。そしてこれらの権利は「特殊権益」とは言われません。そして、彼らの言う「国益」から取り残された一般民衆は、「国益」に奉仕し、沈黙を余儀なくさせられていきます。
これがいまアメリカの社会を覆っている政治の全体像です。言い換えれば金持ち特権階級からの一般民衆に対する、理念的イデオロギー的攻撃、揺り戻しとも言うべきものです。しかしもっと大きな、経済のあり方を全面的に作り変える動きがありました。それに関しては第3回でお話ししたいと思います。
(次回へ続く)
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