講演録

株式会社コーチ・エィにおいて行われた講演会の記録です。


投手コーチの教え
北海道日本ハムファイターズ ピッチングコーチ 吉井理人氏

第1回 日ハムの投手コーチを引き受けるまで

第1回 日ハムの投手コーチを引き受けるまで
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2017年1月23日に、北海道日本ハムファイターズの吉井理人投手コーチを講師として招き、株式会社コーチ・エィにて、社員向けの勉強会が開かれました。

リーグにおいて、また日本シリーズにおいて、2015年優勝の福岡ソフトバンクホークス、2016年に所属した北海道日本ハムファイターズ。両チームとも、それぞれのシーズンで、防御率がトップだったという事実をご存知でしょうか?2つのチームのそれぞれの優勝の陰に、吉井投手コーチの大きな貢献があったのではないか。吉井コーチがどんなコーチングをされているのかをぜひ教えていただきたいと思い、今回講演をお願いしました。

講演では、吉井コーチがどのような経緯でコーチになり、どのような考えで現在コーチングに取り組んでいるかについてお話しいただきました。吉井コーチの講演録を6回にわたって、お届けします。

第1回 日ハムの投手コーチを引き受けるまで
第2回 プロ野球選手と指導者のコミュニケーション
第3回 仰木・野村監督、名指導者たちから学んだこと
第4回 ルーキーからダルビッシュまで、異なる4つの育成ステージとは?
第5回 観察、質問、そして相手の立場になって考える
第6回 投手コーチの仕事は選手のコーチングだけではない

第1回 日ハムの投手コーチを引き受けるまで

プロになることは考えていなかった

小・中学校の頃は、柔道と野球と陸上をやっていました。中学のときに一番力を入れていたのは陸上部です。円盤投げをやっていて、和歌山県で1位になり、近畿大会では2位になりました。当時は、陸上でオリンピックを目指そうと考えたりもしましたが、「いくら円盤を遠くに投げても女の子にモテないぞ」と思い、野球に変えました。

本格的に野球を始めたのは高校に入ってからです。当時高校野球で強豪だった箕島高校(和歌山県立箕島高校)に進学し、甲子園には2回出場しました。プロになることはあまり考えていませんでしたが、ドラフトで指名を受け、近鉄バファローズ(当時)というチームに入団しました(※1)。

大リーグへの挑戦

近鉄バファローズには、1、2軍合わせて11年間在籍し、その後、ヤクルトスワローズに移って、3年間、プレイしました。それからFA(フリーエージェント)権を使って、ニューヨーク・メッツに行きました。メッツに移るときには、実は日本の複数の球団からもオファーがありました。日本の球団からは、大リーグの球団よりずっと大きな契約金の提案があり、正直、大リーグに行くかどうかについてはかなり迷いました。しかし、自分が一番望んでいることについて深く考え、「大リーグに行って、大リーガーになりたい」という結論に至り、最終的に、アメリカに行くことを決めました。アメリカに行き、野球観も、人生観も変わって、多くのものを手に入れました。アメリカに行く選択をしたのは、人生として成功だったと思っています。

アメリカでは、5年間で3つのチームを渡り歩いて(※2)2002年に日本に帰ってきました。帰国後、オリックス・ブルーウェーブ(※3)に入団したものの、ここではまったく活躍できなくて、一度クビになりました。その後、オリックスと近鉄が合併し、オリックス・バファローズになったときに、当時の監督だった仰木監督から「テストしてやるから来い」と声をかけていただき、テストを受けて、テスト入団しました。そこから3年、オリックス・バファローズでプレイして、その後、千葉ロッテマリーンズに移って、42歳まで現役でプレイしました。

指導方法に悩み大学院に進む

ロッテを退団後、北海道日本ハムファイターズから投手コーチの声がかかりました。当時はまだ現役にも未練があり、ここでも迷ったのですが、エージェントから「現役にこだわり過ぎると、辞めるころには仕事がなくなることもある。ここは辞めどきなんじゃないか」というアドバイスをもらい、いろいろ考えた結果、ファイターズのコーチを引き受けることにしました。

ファイターズでは、1、2軍併せて計5年、投手コーチの経験を積みました。しかし、コーチをしながら「これではダメだ」と思ったんですね。そこで、一度ちゃんとコーチングの勉強をしようと思って、筑波大学の大学院に行くことにしました。大学院では野球をイチから勉強し直し、コーチングスキルを学んで、体育学の修士を取りました。

大学院では、工藤さん(工藤公康)や、昔、ジャイアンツでプレイしていた仁志さん(仁志敏久)が同級生でした。大学院2年目のときに、工藤さんがソフトバンクの監督に就任され、そのタイミングでソフトバンクの投手コーチを頼まれまれ、引き受けました。まだ大学院で論文を書く準備をしていましたから、月1回、筑波に通いながら、コーチをしていました。ソフトバンクは、その年、日本一になりました。

1年が終わって、そのまま投手コーチを続けることもできたのですが、論文を書きながらコーチをするのはなかなかたいへんで、一度球団を抜けないと論文を書き終えるのは難しいと思い、1年で辞めることにしました。

ソフトバンクのあと、また日本ハムへ

ソフトバンクを辞めると発表してすぐに、今度はまたファイターズから声がかかったのです。でも、論文を仕上げなければいけないので、すぐに返事はできないとつ立てたところ、1ヶ月間くらい待ってくれたんですね。1ヶ月経って論文を仕上げられる目途が立ったときに、「今年、論文で失敗したら、もう1年間、論文を書きながらコーチをするという条件でもいいですか?」と聞いたところ、OKしてくれたので、2016年シーズンから、ファイターズの投手コーチとしてお世話になることになりました。

翌年、ファイターズに移ってファイターズが優勝したので、「あいつはファイターズのスパイだった」と言われているのですが、決してそうではありません(笑)。

※1 1983年秋のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を受け入団)。

※2 1998〜99年 ニューヨーク・メッツ → 2000年コロラド・ロッキーズ → 2001〜02年 モントリオール・エクスポズ)

※3 近鉄とオリックスが合併する前のチーム)


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